戸田病院のことなら

一九八六年といえば、日本の血友病患者にエイズの感染が広がっていることは知られていたのだが、不思議なことに、私にとってエイズは遠い病気だった。
当時私は、アメリカの男性同性愛者の病気だと思っていた。
だいぶ後になってから、I.Yさんがこの年の七月に、主治医からエイズの感染を告知されていることを知ったが、もちろんその時は知るはずもなかった。
今にして思えば、告知から数力月たって、その衝撃から立ち直り、仲間の感染者同士、これからどう支えあっていくかを模索していた時期だったのだろう。
エイズのことになると、口調には苦渋がにじみでていた。
私は了解した。
エイズという病気にあまり関心がなかったから、だけではない。
血友病いう病気を知るにつれて、その闘病のたいへんさに圧倒されていたからだ。
血友病いう歴史の長い難病からすると、エイズなどはその中の新しい流行病ではないか、とすら思った。
こうして取材範囲の合意ができたうえで、各地の血友病患者へのインタビューが始まった。
血友病は、血液中の凝固因子が足りないために、出血すると寫が止まりにくい遺伝病である。
伴性劣性遺伝といって、筋ジストロフィーや色覚障害のように、男性にのみ発病し、女性が保因者となって次の代に遺伝する。
血友病の六割が遺伝、四割が突然変異ともいわれている。
血友病には二つのタイプがある。
第八因子が欠けているのが血友病人で、第九因子が欠けているのは血友病B。
日本には血友病人、が三五〇〇人、Bが一五〇〇人で、あわせて五〇〇〇人の患者がいるといわれている。
かつては出血をくりかえして関節障害をおこしたり、脳内出血で死亡するケースもあった。
内出血の痛みは凄まじいもので、長い時には数力月も続いたという。
治療法のない時代は患部を冷やし、出血が止まるのを待つしかなかった。
近年になって止血に、血液中に不足している凝固因子を他人の血液から補充する方法がとられるようになった。
供血者からの輸血や、血漿から作るクリオプレシピテートの普及につれて、血友病患者は少しずつ病気から解放されていった。
そして一九七〇年代半ばに開発された凝固因子濃縮製剤(通称血液製剤)の出現によって、ふつうの日常生活ができるようになった。
I.Yさんはこの血液製剤の出現を、「血友病の歴史にようやく春が来た。
待望の薬に思えた」と表現する。
ところが血液製剤は、何千人もの血漿をプールして製造するために、患者に必要な凝固因子ばかりでなく、ドナーが持っていたウイルスまで伝播する危険のあることがわかってきた。
まず肝炎ウイルスの感染が指摘され、やがてHIVの混入も明らかになったのだ。
エイズの症例が初めてアメリカのA国立防疫センターから報告されたのは、一九八一年。
男性同性愛者の間にカリュ肺炎やカポジ肉腫が多発し、死者が出ているという報告だった。
原因不明のこの病気にAIDS(後天性免疫不全症候群)という病名がつけられた八二年七月には、アメリカで三人の血友病患者のエイズ発症が確認された。
感染経路としては血液製剤が疑われた。
八三年三月、アメリカ連邦政府は血液製剤を作っている製薬会社に対して、エイズに感染している可能性のある人たちの血液を使用しないよう勧告を出した。
この年、製薬会社ではウイルスの不活性化をめざす、加熱処理をした血液製剤(通称加熱製剤)の開発に成功し、製造・販売を認可されている。
日本の血友病患者の大半は、アメリカから輸入した血液製剤を使っていた。
そのため、アメリカでのエイズの流行と血液製剤への不安は強かった。
一九八三年夏、血友病患者団体は厚生省に対して、加熱処理をした安全な血液製剤の早期使用を求める要望を出すが、聞き入れられなかった。
加熱製剤が日本で認可されたのは、血友病人の第八因子製剤は一九八五年七月、血友病Bの第九因子製剤は同年一一月のことである。
こうして加熱製剤が認可されるまでの間に、多くの血友病患者がエイズに感染した。
また少数ではあるが、同様の血液製剤を使っていたフォンヴィレブランド病患者にも感染者が出ている。
厚生省のエイズ調査検討委員会で、N.T大学教授とK.A大学教授は一九八五年三月に、二三人の血友病患者の抗体検査で三割が陽性だったと発表している。
現在では日本の血友病患者の四割約二千人が感染したとされている。
しかし当時の私は、このような血友病患者の状況について、ほとんど知らなかった。
「エイズには触れない」と約束していたこともあって、エイズの情報を集めることも怠っていた。
それに私は胎児診断のロケをしながら、エイズではなく別の難問にぶっかって、途方にくれていたのである。
「胎児診断というものは、障害者の生きる権利とのかねあいで、取り上げ方が難しい」というN放送局内部のクレームが出て、放送にストップがかかってしまったからだ。
提案を審議する会議をパスしていたはずの番組が差し戻しとなり、上層部との話し合いや説得に回らなければならなくなった。
撮影はスタートしていたので、インタビューはどんどん進めていたが、八六年の秋が終わる頃になっても放送のメドがただない。
そうこうしているうちに、エイズパニックが始まった。
結局、このタイミングで始まったパニックによって、私はいつのまにか、エイズ問題に関わることになった。
日本人がわが事としてあわてたのは、エイズパニックの時からだった。
日本のエイズパニックは、一九八六年一一月、長野県松本市で始まった。
一一月三日、風俗で働いているフィリピン人の女性の名前が実名で報道され、二日後には松本市内で働いていたことが伝えられた。
日本に来て風俗産業で働く女性たちが増えてきたのは八〇年代に入ってからだが、八四年ころから、その主流はフィリピン女性になっていた。
当時、松本市には就労を認められて来日した人が二〇〇人、実際はその何倍ものフィリピン人が働いていたという。
その女性はすでに東京入国管理局に出頭し、帰国していたが、二ヵ月近くの滞日中にクラブで五〇人ほどの客をとっていた、という情報が流れたために、松本市は大騒ぎになった。
松本市内で彼女が働いていた店や、客となった日本人男性などを探そういますコミが押し寄せた。
「彼女の客」とウワサされた人が村八分になったり、彼女がいた店に出前をしていたという寿司屋が店中の皿を割る、などが始まった。
次には市内に住んでいる外国人の女性たちが、銭湯で入浴を拒否される、スーパーやレストラン、パチンコ店への入店を断られるという事態になった。
挙句の果ては、松本市民というだけで他の町で宿泊を断られたり、松本ナンバーの車が走ると、よける人まで出てきた。
マスコミの中には、帰国した女性をフィリピンヘ追いかけていったり、別の女性を“感染者”と同定してしまう誤報騒ぎもあった。
これが「松本事件」と呼ばれるエイズパニックの前哨戦だった。
年が明けて、本格的なパニックが始まった。
エイズという新しい病気への恐怖が、社会に過剰な防衛行動を招き、大混乱を起こすという現象をエイズパニックとすれば、日本のエイズ史上で最も大きなパニックは、一九八七年一月に起きた兵庫県神戸市でのパニックであろう。
一月一七日、厚生省は神戸市で初めて日本人の女性エイズ患者が確認された、と報告した。
翌日の新聞の見出しには、「初の日本女性エイズ患者―神戸の二九歳百人以上と性交渉」と書かれた。

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